弊社の商標「寿」のはじまり。

昭和の初めに2代目小川政次郎が東京銀座へ赴いた際、当時無名の板画家「棟方志功」氏に書いていただいたものです。商いの繁盛を願い、今も変わらずその想いを受け継いでおります。

明治期

元治元年(1864年)江戸の末期、老野森村(現山形県天童市)に初代小川右吉が生まれる。
明治20年10月に現在の山形市肴町にて創業。
明治35年5月山形市宮町に居を構え、本格的に製麺製造に乗り出す。

当時は山形市内の水車製粉業者から、小麦を集めて加工するものだった。山形は水利の便良く小白川方面には至るところに水車小屋があり、この水車による製粉が盛んで、それらの業者に頼んで委託製粉したものだった。作業も高下駄を履いてプーリーを回しての手作り仕事だった。主力めんはうどん・そうめんで、その頃産前・産後に良いということで、よく食べられたものだった。年間を通してはお盆が最盛期だった。電気のない時代なので、繁忙期には朝早くから深夜まで働き詰めだったらしい。その当時、麺は毎日製造せず、作っては売り、なくなっては作るの商売で、販路は遠くとも県内近郊の山辺・上山あたりまでだった。冬場は暇なので、初代は仕事の合間をみて寺子屋の先生のまねごともしていたらしい。また小麦粉は相場で取引されていたため、馬で南部(岩手県)あたりまで出向き、利幅を稼いでいたという。小麦のほか、大豆にも手を出し転売して儲けたこともしばしばあったようだ。

大正期

大正7年、二代目小川政治郎斯業に従事。事業拡大に積極的に取り組み、製麺方法も従来の手作りから機械式製麺の方向へ歩み出す。大正10年商標を「寿」とし、販路も山形県南部を中心に拡大を図る。

関東大震災前後、小麦粉の価格は22kg布袋入りで3円前後で推移したが、上がったり下がったりすると大騒ぎしたそうだ。何分、今でいう加工賃(一袋当り)が30銭・50銭の勝負だったのだ。

昭和期

昭和13年以降日支事変の拡大とともに、徐々に戦時統制色強まり、昭和17年食糧管理法公布。小麦粉や麺類も自由販売できなくなる。従業員も軍隊や徴用にとられ、製麺業は開店とはいえ、生産減少・企業集中生産方式などに入る。さらに戦争末期には、学校に近接しているとの理由で工場解体の命令を受け、一部解体・更地のまま終戦を迎える。
昭和20年以降(終戦直後)は、一部解体された30坪余りの残骸工場のみとなり、食糧統制のなかで、麺類の自由な製造販売ができず、農家が作った小麦の委託加工と配給を受けたわずかばかりの商いが続いた。
昭和27年4月、小麦粉の統制撤廃、自由市場となる。戦中戦後の約15年間のブランクを埋めるべく積極的に活動する。製品も普通品から次第に高級麺に移行。価格から品質面の競争時代に入る。
昭和36年5月法人組織に改組。株式会社小川製麺所設立。代表取締役小川政治郎、資本金200万円。高度成長期を迎え、麺業会も成長へ向かう。昭和38年には日産200袋を超す。
昭和38年2月、山形市北町にラーメン工場を建設し。即席ラーメンの製造を開始。昭和42年9月即席ラーメン、日本農林規格(JAS)認定工場となる。(RM-121号)
昭和46年8月、山形市宮町本社工場全焼。本社を北町二丁目(現在地)に移転、11月、そば乾麺工場竣工。翌年6月白物乾麺工場を竣工、一応の再建となる。
昭和54年3月、手のべ麺生産のクリーンシステム工場に竣工、手のべ生うどん・生きしめん・生ひやむぎの製造販売開始。昭和60年11月めんつゆ工場一棟竣工。昭和61年3月三代目小川保吉が代表取締役社長に就任。昭和61年4月乾そば専門工場一棟竣工。

平成期

平成5年6月、生そば工場を竣工。同年12月、そば新工場(4階建)を竣工。平成6年11月山形県産業賞受賞、平成20年10月、食品衛生優良施設として厚生労働大臣賞を受賞。現在、乾麺生産能力26トン(干しそば18トン、白物8トン)、手延べめん類 1トン、生そば類 1トンを持つに至る。
平成22年、島崎利博が代表取締役社長に就任。

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